へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

かつて不便だったアレやソレとゲーマー

具体的なタイトルはさておき、旧来存在していた仕組みが無くなり便利になると同時にタイトルらしさが失われているとかで右や左に話題がちらほら。

初代WizとかDiabloのインベントリを令和の時代にそのままお出しされても「ウワー!キツイ!」以外の感想はないのだけれど、迷宮に入って毎回最初にロミルワとマポーフィックを唱える作業はじゃあ現代のゲームにはいらないのか?と問われると……うーん、どっちかというとしたくはないけど……このあたりはまぁまぁ難しい。

かつては仕組みやイベントの形として組み込まれていたが、今のゲームにおいては『儀式』の域を出ないと評されるものはあるだろう。
そしてその儀式をどれだけ大切にするか、人によって重みの違いがある。

ノウハウのあるメーカーが作るゲームは、今は概ねその儀式を利便性のあるものに進化させたり、もしくはそれ自体を取っ払ってしまっているものが多いと感じる。個人的には歓迎しているが、一方で世論の一部を見るとその儀式を大切にしてきた人達にどうやって報いるかも考えなくてはならないのかもしれないという気持ちも起こる。

かつて不便だったものを、当時も別にそれを楽しんでいたという訳でも無い気がするのだが、作品を構成する要素ではあったし、そのルールに従ってやりくりしていたものが丸ごと取っ払われた時、あぁあれは心に残った仕組み(行為)だったれど不必要なものだったんだなぁ。と必要以上に感傷的になるのは僕だけだろうか。

ゲームから不便、無駄、無理なものが取り除かれる事には賛成だ。しかし不便、無駄、無理があってもいいしそれを楽しむ事が出来るのもゲームというメディアが持つユニークな個性だとも同時に思う。そして、アレやソレに対して当時は何も思わなかったが、今では儀式めいた何かや意味の無いものに見えてしまうというのは、もしかしたら変わったのはゲームではなく自分かもしれない。こんな議論は今後も絶える事はないだろう。答えは見つからないが、メーカー側も上手い落とし所を見つけて僕らを楽しませてくれたら嬉しいなと思う。



一見無駄に見えて答えが見つからないものといえば
なんでカービィって三人に増えて踊るの?


酒をかっくらって寝る事にした。

桜井大先生が答えを書いていた気もするけれど、自分一人で考え始めたら広い宇宙に取り残され孤独に漂っているような不安を覚えたから。