人間の欲って留まる事を知らないんだよ。
成功を積み続けた金持ちが世の中の平均から見たら十分に贅沢な生活をしても満たされなくなる、みたいな話に限らなくて、自分らの身近な話でもあってさ。
良いステーキの味を知っちゃうと普通の肉じゃ満足しづらくなるとかそんなレベルの話でもある。
ドンドン欲をかいて向上心に突き動かされて物質的に富む為にチャレンジを繰り返す事は全く否定しない。
というか世が言う常識や人間の在り方としてはそちらの方が正しい姿であるという風潮なのは違いないしね。
それで日々が幸福ならばそうすればいいし、そうじゃなかったら止めればいい。
結局人生って自分の主観だから自分で幸福を定義するべきなんだよね。
…と思っているんだけど、これも結構難しいというか。
「お前の定義した幸福って間違ってね?」
と家族、友達、社会、世界、他者…誰でもいいんだけど、そう突きつけられたり
「俺の定義した幸福実は間違ってね?」
と自分の幸福に添ったはずの生活を何年もしてから気が付いたり
そのどっちか、または両方でもいいけど、そうなった時に取り返しの付かないほどの悔恨に苛まれるんだよ。
「自分の定義した幸福は絶対的に正しくて価値観をアップデートする予定も今後ございません!」と言い切れるなら特に言う事はないんだけど。
何が幸福なのか決める過程にだって、自分の人生経験だけではなく、世間が説く普遍的な価値観と擦り合わせる作業が必ず入る。けど自分の人生経験も、世間の価値観も、日々変わっていくんだよな。だから幸福の定義を決めんのって困難なんだよ。
じゃあ幸福になるにはどうすればいいんだろうな。
例えば「足るを知る」事について深く考えるとか(身分相応の暮らしで妥協するという話ではない)、新たな価値観に触れる度に幸福の定義自体を修正し続けて暮らすとか、まぁ色々あると思う。
そして幸福についてというテーマに限った事ではないんだけれど、
悩み続け、一度出した答えと違う答えをまた出して、真理を追い求め、人生を全うする瞬間まで真摯に向き合い続ける事。それ自体が肝要であると多くの知識人は言うし、悩む事を止める事を「思考停止」「考えのレベルが低い」と、悪にする風潮はあるよね。
そんな中で自分は批難を恐れずに言い切っちゃうんだけど、自分は幸福について深く悩む事、それを定義しようとする事、それらを全く考えないわけではないけれど基本的には消極的だ。
理由は先に挙げた通り、主観的な幸福の定義を失敗する可能性に対しての恐ろしさからだ。
その代わりに「日々が楽しくある」ように努めている。
「楽しい」って最終的に幸福と近いものかそれ以上のものに交換出来るレートの通貨なんだよ。
お前ほんとパッとしないサラリーマンで人生終えたな。って今際に言われても
「は?毎日楽しかったから別にいいんだがw」
って胸を張って言い返せたら勝ちじゃない。
いや、勝ちだの負けだのを考えるのも土台おかしいと俺は思うけど。
どんな立場でも同じ。
「最期まで無職で人に迷惑かけっぱなしで死んでいくんだな」
「は?毎日楽しかったんで勝ちw」
「人生成功して金も土地もあるけどどうせ心は貧しいんだろ?」
「いやw不自由なくて日々楽しく心も豊かだったけどw」
「妻帯して家と車のローンに雁字搦めになって結局自分がやりたい事なんか一つも出来ないまま人生終えるんだな」
「これほどかけがえのないものに囲まれる楽しい人生なんか他に無いがw」
「ププーッ、独身童貞乙です!死に際までたった独りで寂しい生涯じゃの~」
「ん?何かに縛られる事は最小限にとどめて自分にたっぷり時間を使って楽しく過ごしたからいいけど」
自分が思う楽しさについてケチをつけられたら言い返してやったらいい。
人間って最後は大勢に看取られてホワホワのスクリーントーンが貼られた漫画の一コマみたいな雰囲気で死んでいくとかなくて、良くてもチューブに繋がれながら独りで死ぬんだよね。家族とか友が大勢いてもさ。
そんな時に「(結局いっぱい悩んできたけど答え見つかんなかったな~俺の人生これで良かったのかな?)」って最期まで悩みながら命を手放すというのも、とても人間らしいし素晴らしいと思う。
でも自分は体動かなくなった時に「(あれ喰った時とかあれで騒いだ時とか楽しかったな~そうそうあんな事もあった…)」と延々と思い出を辿りながら自分の生涯をしめたい。
だから毎日「楽しい」を集めて、ジャラジャラ音をさせて持っていってさ、死ぬ前に「幸福」を"含めた"色んな気持ちと交換するんだ。
幸せについては分からない。
その代わり毎日楽しくあるための最大限の努力をしている。