へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

ゲームが目指すところはゲーム

以前から一部の界隈をひっそり盛り上げていた格ゲーマーのゲーム配信である「モリ・ゲーム」。

今やTwitch界に版図とじわじわ広げつつあり、リアルイベントを開催するほどの規模にある配信で、新たに始まったイースI&IIを楽しく見ていました。

イースIの最初のイベントの流れを見て、"当時ならではゲームらしさ"を感じてトキメキました。

ワケあって流れ着いた村で、初対面の村長から「頼みがあるんだが内容を秘密に出来るか?」と交渉される訳ですが
昔のゲームだから許される導入だなーとw

TRPGなら「なんで初対面の知らん村長から内密前提で頼まれごとされるねん!」とかなってもおかしくないですしw

でも僕は「ああ、ゲームらしいって素晴らしい事なんだな」とか思ったりもしたんですよね。

この雑な導入、アニメや漫画、小説だったら多分許されないと思うんですよ
でもゲームだから許される、ゲームらしい導入なんだと。

僕は、"ゲームというのはどこまで行ってもゲーム"であって欲しいと思うんです。



一昔前に「ゲームは映画ではない」という話題が論じられた事がありました。スクウェアソフトが映像美を前面に打ち出し始めた頃です。

アトラスのBUSIN-WizardryAlternative-のCMでは実際に「映画みたいなゲームはいらない」というパンチの強いワードが使われていました。

僕もゲームは映画ではないと思います。
そして同時に、ゲームは小説でもないし、大楽団でもないと思うのです。

今の若い世代が無邪気にゲームを愉しむ姿と、我々がWIZ#1に初めて触れた時の姿って似ているんじゃないかと思うんですよね。狂王の試練場には仰々しい音楽も物語も無く、そこにあるのはただコンピュータRPGという新しく新鮮な娯楽でした。

ファミコン時代から慣れ親しんだ僕の世代らへんは、
ゲームという娯楽に対して肥えすぎたんじゃないでしょうか。

映像も、シナリオも、音楽も。

ユーザーからのより高い要求に応えるため、それらが専門の娯楽に近づいていくのは悪い事ではありません。
映像は映画のようで、シナリオは小説のようで、音楽は楽団のように。

ですがそれらはあくまで姿勢や目標なのであって、ゲームがそれらそのものになるとか、そのものの代わりになる必要なんて全く無いと思います。

ゲームがゲームであるからこそ許されるバランス感覚。
それこそがゲームという娯楽の醍醐味だと僕は考えています。


抽象的な話になってしまいましたが今日はこの辺で。

じゃーゲームらしさとは何か、ゲームという娯楽にのみ許されたものは何よ。っていうのは一人一人に答えがあると思うので、なんとなく考えてみるのも面白いハズ。

僕個人の答えとしてはシステムや内容が独創的だったり面白かったりすれば現実との矛盾や乖離が許されてもいい娯楽がゲームだと思ってます。

イースは今やっても今見ても面白い(ここが最も重要。一番大事)。