へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

鉄のオタク

読みました。

p-shirokuma.hatenadiary.com



アニメ文化はあまり詳しくないが、ゲーム文化にも近しいものを感じる。


「論争するオタク」「それ以外のオタク」
Blogやインスタは一旦置いて、Twitterに限定して話す。

・好きな作品の欠点を精力的に指摘して同好の士と論じ合う「論争するオタク」
・好きな作品について語り合い、似たような仲間とのリプライ・コミュニケーションを楽しむ「それ以外のオタク」

もちろん前者が後者の側面を持っていたり、その逆もあり得るが、こんな感じに二者を線引きしていいだろう。


批評は非難に曝される
批評とは良い点も悪い点も論じる事だが、悪い点の指摘に寄った批評は攻撃の的になりやすい。

そのオタク界隈をリードするアルファや準アルファのアカウントに見つかろうものなら、引用RTで晒し上げられて彼らのフォロワーからリプライを浴びせられる事も珍しくない。

「不満があるならやめろ」
「お前はこの作品の客じゃない」
自身なりに考えて作品について論じた高カロリーの批評に、彼らからの全くカロリーを使っていないこの一行がリプ欄に立ち並ぶのはストレスも感じよう。


鉄のオタク
上記の事情からTwitterという現代SNSで論争するオタクをやる事は、相当にシビアな覚悟を持ち、精神的に強靭でなければ務まらない。

鉄のように強いオタク、鉄のオタクだ。

古来からの鉄のオタクから見れば、現代SNSのオタクは「作品を褒め合うだけのお遊戯会のようなぬるま湯」で生きている柔弱な生き物かもしれない。しかしそれを良しとせず「非難を恐れずに論じ合う精神的タフさを持て」と言うのも、オタクが嫌いなはずであった体育会系のノリそのもののはずだ。


オタクの住む場所
鉄のオタクは少ない。Twitter上で鉄のオタク同士で限定的なコミュニティを築いていたとしても「作品について文句ばかり言っている界隈」として外野に吊るされるリスクは絶えない。オタクはオタクである前に人間である。オタクである以上強くあれという建前を掲げていても、外野の非難に、昨今の風潮と自分の意識のズレに、病むものは病む。

インターネットはもはや大衆のものとなった。そこは鉄のオタクの楽園とは言い難いだろう。かつてゲームが好きなだけで「頭が悪くなる」「現実と空想の区別が付かない狂人の予備軍」と謗られた時代があった。こういった時代に、ネットの隅で縮こまっていた「古いオタク」と、鉄のオタクは、似たような居心地の悪さを覚えているのではないだろうか。

そもそも古いオタクが、ネットが大衆化した現代においても古くからの自分のスタンスを貫き通した結果が、鉄のオタクとしての定義だろう。
もちろん古いオタクの全てが批評家気質ではないが、いわば作品を「斬る」ようなテキストを投稿する事がオタクカルチャーに存在していた事も事実だ。

昨今のスタンダードなオタクは作品を皆で褒め、称え、仲間同士で楽しく騒ぎ立てる、陽キャそのものだ。鉄のオタクが生息する様は、古いオタクのかつてのネット上での構図に似ているのではないかと思う。


自分のオタクの在り方を考える
Twitter上での話を終え、自分のブログの話をする。
このブログはゲームの話題ばかり書いて16年やっている。昔の投稿には、半分くらい鉄のオタクに足を突っ込んだ、強めの批評記事を書いた事もある。
まだ若い学生の頃に勢いで書いたもので粗ばかりだ。最近のネット事情では、すぐに吊るし上げられて「悪者」認定を受けていただろう。

結論から言えば、今は特に鉄のオタクのブログでありたいとは思っていない。
あるゲームを紹介する時に欠点・問題点から目を逸らして記事を書くのは一介のゲーマーとして、ゲームに対する誠意をある程度欠く行為だと僕なりに考えている。しかしながら、必要以上に難じる事もまたないと思っている。
もちろん、批評に値する欠点があるならば、臆さずにつまびらかにする。

というのも、批評は難しい。文章と表現力の力加減が精妙でなければ、単なる誹りに転じる事もあり、受け取り手側にも一定以上の理解力を要する文化だ。
トロパズの記事のように全く批評をしないわけでもないが、根本的には単なるリスクヘッジに近い意味合いで、自分の拙い文章力で作品につまらない誤解をさせないように事細かく問題点をあげつらう事はしていないだけである。

また単純に自分の気質上、自分を育ててくれたゲームという文化には、なるべくプラスの要素をフォーカスしていきたいというのもある。それは頑健な古来のオタクから見れば「陽キャ気質」であり「ぬるま湯」であるかもしれないが。


ここまで私感を連ねただけであり、オタクという文化について合点が行く落とし所を提示できたワケでもないが、冒頭の記事から自分なりに考えさせられ、また自分のスタンスを再確認出来たという事でキーボードから離れる。