僕の語り口は今日も迷子だ

僕の文章は、記事ごとに文体がとっ散らかっている気がする。

「〜です、ます調」で穏やかに語った翌週には、「〜だ、である調」で急に語り口が硬くなったりして、自分で読み返していても、まるで別人が書いたみたいだと思うことがある。

おそらくブログとしての「統一感」という点では、これはあまり褒められたことではない。文章のトーンが安定していないブログというのは、読み手にとってちょっと落ち着かないかもしれない。それでも僕は、このとっ散らかりにどこか愛着を感じている。





なぜ文体が変わるのか。自分でもはっきりとは分からないけれど、ひとつ思うのは書きたいことに文体が引っ張られるということだ。

幼少期の思い出を書くときは、自然と柔らかく優しい語り口になる。
反対に、社会や創作論のような話題になると、文章が少し硬質になる。
まるで書いている途中で、キーボードが人格を持つような感覚があるのだ。

もう一つ、理由がある。

僕の文章の出発点は、「模倣」だった。子供の頃に読んだゲーム雑誌の読者投稿コーナーの、あの軽妙なノリ。ネット黎明期のテキストサイトの、どこか斜に構えたニヒルさ。そういう誰かの文体を真似て書き始めたのが、僕の原点だ。だから今でも、記事ごとに違うペルソナが顔を出す。あるときは真面目な書き手、あるときは軽口ばかり叩く語り手。文章を書くたびに、僕の中の誰かが前に出てくる。

だから、このブログを読んでいて「なんか雰囲気がバラバラだな」と思う人がいても不思議じゃない。執筆者が複数いるように感じる人も、もしかしたらいるかもしれない。でも、それは全部僕ひとりの手によるものだ。このとっ散らかった文体たちは、僕の中にいる、いろんな僕の集まりでできている。

もしよければその混沌も含めて、「へたれゲーム貴族」なのだと感じてくれたらと思う。