今世間を賑わせている小学館の炎上の件について。
取り下げるかもしれないし、賛同を得たいわけでもない。ただ俺の思った事を書いておくだけだから、タイムスタンプも下げておく。
本題。
「星霜の心理士」を手がけている八ツ波樹氏が「マツキタツヤ」名義で、「アクタージュ act-age」を連載していたが、2020年8月に強制わいせつの疑いで逮捕され、連載を打ち切られた。また「堕天作戦」をマンガワン上で連載していた山本章一氏が未成年に対する性加害を行っていたにも関わらず「常人仮面」の原作に携わらせ名義を「一路一」に変えていた。この小学館の件、許されざる事件であり、これに怒らずは人にあらずというのも理解が出来るのだが、その怒り、義憤をTLに解き放ち、「俺は怒っている!」という事を何が何でも自分のフォロワー達に表明しないとダメなんだろうか?と思う。
なんていうか、難しい。
正直、めちゃくちゃ不愉快な事件だ。だから咄嗟に出る声を飲み込め!なんて事は言えやしない。怒りを外に出さずしまっておこうなんて事も言うつもりもない。ただ、その叫びがどういった意図で自分の喉から出るのか、少し踏み込んで考えてみる。
SNS上での義憤表明は、しばしば二重の意味を持つ。ひとつは、純粋な告発や問題提起。もうひとつは、「自分は間違っていない側に立っている」という立場表明、いわばシグナリングである。「俺は怒っている」「これは許されない」「まともな人間なら憤るはずだ」こうした言葉は、問題への批判であると同時に、フォロワーに向けた自己紹介でもある。自分は倫理的に正しい側の人間です、という。
そう、「怒っていること」そのものが目的化してしまったらどうだろう。問題がどう改善されるか、誰がどう責任を取るべきか、創作環境はどう変わるべきか。そうした地味で面倒な議論は、タイムラインではほとんど評価されないように感じる。
重ねて書くが、もちろん怒るなと言いたいわけではない。今回の件が不快で、許しがたいと感じる感情そのものは、ごく自然だ。ただその感情を「今すぐ・公の場で・最大音量で」表明しなければならない必然性が、本当にあるのかは別問題なんじゃないだろうか。
TLを眺めていると、その義憤表明が、本当に問題を良くしたいという気持ちから発せられているのかが分からなくなる。いや、言葉を濁すまい。正直に言えば「自分は正しい側に立っている」と周囲に示すための、社会的ジェスチャーに使っている人が多いように見えるのだ。怒りの表明を、自分が「まともな陣営」に所属していることを証明するための、いわばコミュニティへの入場券として消費してはいないか。
考えるべき論点は多岐にわたる。編集部の判断、企業としてのガバナンス、犯罪者は将来仕事とどう関わるべきなのか、被害者への配慮はどうか、そして創作の現場はどこまで透明であるべきなのか。それら全てへの答えを出すのは確かに困難だ。
だからこそもう一度問い直したい。単純な怒り、義憤をTLに解き放って「俺は怒っている!」という表明。その表明の動機が「フォロワーに軽蔑されたくないから」や「まともな人間だと思われたいから」という、自分を守るための防衛本能に基づいたものだとしたら、その言葉にどれほどの価値があるのだろうか。
……とはいえ、義憤の表明がすべて悪いと言うつもりはない。多くの場合、それは純粋な不満や正義感から生まれ、社会全体の意識を変える原動力になることも事実だ。例えば、過去のハラスメント事件では、SNSでの声が企業改革を後押しした事例もある。私自身もこの問題に不快感を抱いているし、怒りを共有する人々の気持ちを否定するものではない。ただ、表明が目的化せず、そこから一歩進んで具体的な議論に繋げることが重要なのではないかとも思うのだ。