へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

一日外出録ハンチョウから考える、『好き』の形。

「1日外出録ハンチョウ」の第152話「散時」では、班長・大槻がコーヒー事業に手を出し、地上での外出を利用してコーヒーに合うお菓子を探すエピソードが描かれている。

僕は度々この漫画を、ただの漫画ではなく、人生の某かについて考えを深堀りするための一種の教科書めいたものとして取り扱っているのですが、今回もまたやってくれました。

第152話で、大槻がふと漏らした告白。それは、これまで喫茶店で迷わずコーヒーを注文していた彼が、実は豆の銘柄や味の違いなんて全然わからない。というもの。しかも、ビジネスホテルの備え付けコーヒーで大満足という徹底ぶり。それでも彼は断言します。

「そんなんでも本当に心からコーヒーは好きなんだ」

このエピソードで気づかされるのは、「好き」という感情は知識量やこだわりに比例しないということ。豆の生産地や焙煎方法なんて知らなくても、朝一杯のコーヒーが「今日も頑張るぞ」というスイッチになるのなら、それだけで十分だと思うのだ。「違いがわからないから好きと言っちゃダメ」なんてルールは、いかに無粋なものかを思い知らされる。

これは、エンタメもまた然りだと思う。コーヒーだけに留まらず、あらゆるエンターテイメントにも応用できる。

例えば、僕もお気に入りの作家がいる。貴志祐介先生だ。しかしその作品のテーマや伏線をすべて理解しているかと問われれば、正直怪しい。それに「悪の教典」や「新世界より」といった彼を代表とするタイトルは未読だ。

だとしても、ひょっとしたら「好き」だと胸を張って言っていいんじゃないか。
いや、きっといいのだと思う。

映画や音楽だってそうだ。監督の撮影手法や、作曲家の音の構成を知らなくても、「面白い」「心が震えた」と感じた瞬間には確かな価値がある。エンタメの楽しみ方として、分析力はもちろん大事だ。だけど、個人の感情の揺らぎ。それだって大切じゃなかろうか。

突き詰めて言えば、きっと「好き」という感情に資格はいらない。それがコーヒーであろうと、小説や映画、音楽であろうと、僕たちはそれぞれのペースで、好きなものを楽しむ特権を持っているはずだ。そして、その自由さこそが、エンターテイメントの本質ではないか。

ハンチョウのコーヒー哲学に倣い、2025年も思うままに、感じるままに、好きなものに対して「好き」を表明していきたいと思う。



余談だが僕もコーヒーは「大好き」だ。
大体飲んでいるのは、ドトールのインスタント粉末や缶コーヒーだ。