「面白さ」の定義が変わった時代の、ゲームの話をしよう

僕らは今、1億総ゲーマー社会に生きている。

スマホを手に『ウマ娘』や『原神』をプレイし、Switchで『スプラトゥーン3』を遊び、PS5で『エルデンリング』をクリアする。誰もが日常的にゲームに触れ、何かしらの「面白さ」を感じている。そんな時代だからこそ、僕たちは無意識に、ゲームの面白さとは何か、良作とは何か。という問いと向き合っているのかもしれない。

かつて、僕らはとんでもない額を出してゲームを買っていた。スーファミ時代の『ファイナルファンタジー』は1万円近かったし、四桁後半を払ってクソゲーを掴まされることも珍しくなかった。

お年玉が『マインドシーカー』になった少年少女もいるだろうし、僕みたいにバイト代が『スペクトラルタワー2』になった者もいる。いや、まあまあハマったけど……。だからこそ、ゲームのクオリティは高くあってほしかった。あの頃、ゲームを買うのは一種のギャンブルで、「頼む、良作であってくれ」と、パッケージを開ける瞬間は祈りに似ていた。


当時の「良作」の基準は明確だった。バグが少ないか、ゲーム性が洗練されているか、ストーリーが心を掴むか。『クロノ・トリガー』や『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』は、そんな基準で「神ゲー」と呼ばれ、語り継がれた。完成度(クオリティ)こそが全てだったのだ。

だが、今はどうだろう? ゲームの評価基準は大きく変わった。2025年の今、SwitchやPS5の新作、スマホゲームの話題作を見ても、完成度だけではゲームの面白さを語れない。『Among Us』が世界を席巻したのは、シンプルなゲーム性以上に、友達同士で「お前、インポスターだろ??」と笑い合う瞬間や、ストリーマーによる盛り上がりがSNSで爆発したからだ。その他のスマホRPG達も、豪華な声優陣や愛らしいキャラクターでプレイヤーを引きつけ、YouTubeやXで「推し活」の投稿が溢れる。ゲームはもはや「遊ぶもの」だけでなく、「語るもの」「共有するもの」になった。

「神ゲーかどうか」よりも「自分の時間に合うか」「推しがいるか」「みんなで盛り上がれるか」。そういった視点で語られるゲームが、今は主流になりつつあるのではないか。

この変化は、購買動機にも表れている。かつてはゲームショップでパッケージを手に取り、裏の説明文を読みながら「これは本当に面白いのかな……?」と真剣に悩んだ。今は「Xでバズってるからインストールしてみた」がスタンダードだ。SteamやApp Storeでワンクリック、数百円、または無料でゲームが手に入る。物理的にも心理的にも、ゲームとの距離は劇的に近づいた。「ちょっと試してみる」が、こんなに簡単になった時代はかつてなかった。

確かに、圧倒的な自由度とストーリーがあれば「神ゲー」と呼ばれるが、忙しい人にはプレイ時間が長すぎるかもしれないし、その自由度は人によっては戸惑いを与えるかもしれない。一方、シンプルなローグライトは、30分のスキマ時間で満足感を与えてくれる。「自分の時間に合うか」「推しキャラがいるか」「友達やSNSで盛り上がれるか」。そんな視点が、ゲーム選びの新しい物差しになっている。

面白さは「完成度」ではなく、「遊び方」や「語り方」へと評価軸がシフトしているのだと思う。

もちろん、「名作」は今でも存在する。そしてその名作は、時代に応じた文脈の中で発見され、語られていく。いまや「面白さ」は人の数だけある。ならば自分にとっての一本を見つけて、思いっきり楽しむこと。それが現代のゲームシーンの在り方なのだろうと思う。

僕はスーファミやプレステが全盛期だった時代からの、そこそこ古い時代のゲーマーだ。だけど、感性を枯らす事なく、そんな中で、これからも「これはいい」「これはすごい」と思った体験を、誰かの次の良作との出会いに繋がるかもしれないと信じて。これからも、言葉にしていきたい。

それでは今日はこのあたりで。