へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

ゲー録100 全てのへたれゲーム貴族たちへ


へたれでへたれでどうしようもない、ゲームだけが趣味の君へ。


学習と努力。

この2つはゲーマーの最も得意とする分野であるはずだ。
失敗した部分を改善し、技術を研磨し、最後の一手を煮詰め、勝利する事。
それはゲーマーの真骨頂だ。

本当に楽しいと思える分野なら、君は学習と努力を信じられない効率でこなす事ができる。


世の中の全ての仕組みはゲーム。
そこに明確な数値や攻略法がなかろうとも、そこに君が本気になれる仕組みさえあれば、見つける事が出来れば…

世の中の全てのへたれゲーム貴族たち、
どうか人生というゲームを楽しんで。
100人プレイヤーがいれば100通りのプレイと結末があるのが人生だから。


 追記  ====
上でも書いたけど

学習と努力を繰り返し、失敗した部分を改善し、技術を研磨し、最後の一手を煮詰め、勝利する

という事は10年前のゲームにおいてクリアに至るまでのもっともスタンダードな攻略法であったわけだ。

ところが近年、ゲームのスタンダードも変わってきて、学習と努力の必要もなしに或る一つの結末(エンディング)まで導かれていくというゲームも多い。
もちろん最近は、比較的誰でもゲームを楽しむ世の中になってきて、ゲーマーという存在自体が比率的に減少傾向にあるからだろう。

メーカーからすれば
人口の多いライトユーザー>少ないヘヴィゲーマー であり
ライトユーザーに向けた商品開発・難易度調整が当然だからだと思える。

では努力の必要もなく結末(ED)を迎えられるゲームばかりが筆頭してきた近年において、ヘヴィゲーマーの生きる場所がなくなってきたのか?


答えは───否である。

エンディングを迎える事をゲームの終わりとするなんて、そもそも昔のヘヴィゲーマーはそんなに固い頭をしていただろうか?
何をもって何を終わりとするかは一人ひとりが決めれば良いことだし、
例えどんな優しい作りのゲームだろうと努力し、研鑽する余白は自分で見つければいいことだろう。

人生や社会についても同じ事である。

「私たちの日本はどこか不幸で危険な影を背負ってる」というムードを三流ゴシック雑誌やうさんくさいサイエンス番組で垂れ流しにしつつも、実は全くたるみきった政治と教育にまみれた社会に絶望する前に…


ゲーマーという存在だからこそ
チャレンジできる、クリアしようと思える何かを。