へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

怪作「連ちゃんパパ」に思う

その作品は猛禽の急襲が如くTwitterのトレンドをさらっていった。


「連ちゃんパパ」である。
電子書籍サービス、マンガ図書館Zにて著作者様の許可を得て公開されており無料で楽しむ事が出来る。

楽しむ、と書いたが読むにはかなり覚悟のいる作品だった。
牧歌的な画風とは裏腹にどす黒い人間のさがを描いているのだ。

作中に様々なキャラクターが登場するものの、その中で最も人情味を感じられるキャラクターが借金取りの男性という凄まじさである。


人間としてあまりに堕落しきった主人公とその妻に、ネット上からは「こんな人間と自分はかけ離れていてよかった」という安堵に満ちた雰囲気を感じる。

そういった感想を抱ける人の精神の健全さが羨ましい。
多少なりとも自身の怠惰さや社会への適応力と向き合った事のある身としては、他人事には思えなかったからだ。


私は連ちゃんパパと違い、ギャンブルもやらなければ財産を一晩で溶かすような趣味も持ってはいない。しかし心の弱さが何かの理由で増幅された時、第二の連ちゃんパパにならないとも限らないと恐れている。「私はこんなに酷い性格をしていないから」「こんなに生活に困窮していないから」と安全圏から見下ろすような事は決して出来ない。

作中、主人公は学校教師という堅実な社会的立場がありながら、不運に翻弄され、自身の心の弱さに呑み込まれ、倫理観を失い多くの人間へ多大な迷惑をかけながら、どん底どん底へと転がり落ちていった。連ちゃんパパのようにならない安全圏とはどこなのだろう。自分の心の中に、まだ開けていない「弱さの引き出し」は無いと言い切れるだろうか。そしてその弱さの引き出しから出てきた怪物を、途方もなく巨大なものに育ててしまわないと断言出来るのか。


人間誰しもが連ちゃんパパに成りうる可能性があるなどという、ありきたりな警告をするつもりはないし、実際にこの漫画を「屑の見本市」として一笑に付す事が出来る人は健全なはずで漫画の登場人物のようになる事も無いと思う。だが私はどうしてもこの作品を読んで笑い飛ばす事が出来ず、色々と考えさせられた。