へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

雑文526 ヒトリノトモダチ

僕には一人の友達がいる。
中学校からの付き合いで、十数年以上の仲だ。

彼は豊かな家に生まれ、悠々自適に暮らしていて今でも自由な生き方をしている人である。
僕はそれを少しも羨ましいと思わないと言えばウソになる。

そんな彼だから、二人で飲み交わす時に、サラリーマンならではの辛さの共有だったり、社会の愚痴といった話になる事は一切無い。
二人で集まって話す事といえば、あれから何年も経ってお互い三十歳になった今でも、ただひたすらに中学校時代にバカをやった話やら、あの頃に熱中したスーファミやプレステの話を一心不乱にするのみだ。


ああ。それは僕にとってなんて甘美で、救われるような奇跡なんだろう。
そう思う。

同世代で未だにこんな馬鹿な話を真剣にしてくれる友達は彼をおいて他には存在しないからだ。

もし彼がくたびれたサラリーマンになっていたとしたら、いつまでも昔の思い出話をしてくれただろうか。もしそうだとしたら、ただただ互いの苦境やら苦い愚痴を零し合う間柄になったような気がする。

息苦しいこの世の中で、愚痴を零し合う仲間を作るのは簡単だ。
そして愚痴を言い合うのもくそったれな社会を生きるためのカンフル剤である事も確かだ。

しかし僕は一介の社会人である以上に、ブログタイトル通りのへたれゲーム貴族だ。生きる合間にゲームをやりたいと思わず、ゲームをやる為に生きたいと願っている。僕にとっては人生の愚痴を言い合う事よりも、ひたすらにゲームの話を語らう事が生きる為の活力になってくれる。

彼は、僕に元気をくれるのだ。

一時期ではあるが、少し距離を置こうとした事が実はあった。
その気持ちの源は、自分が社会に向き合っている中で、気ままに暮らしている彼を直視するのが辛くなったからだ。
身も蓋もない言い方をすれば醜い嫉妬の一種である。
そんな時に、たまには飲まないかと誘われ久しぶりに会い、変わらず屈託のない笑顔でレトロゲームの話題に花を咲かせてくれる彼を見て自分の気持ちを思い直した。

僕はこれからも彼の存在に助けられていくだろう。
皆さんにも心を支えてくれる存在はいるでしょうか。
家族でも友人でも、そういった人を大事にしていきたいと僕は心から思います。