へたれゲーム貴族

未知の世界への鍵(ゲーム)を手に。

いま

先日、連休を利用して友人達と一泊二日の旅行をしてきた。

楽しい時間はあっという間のものだ。帰路、駅を発つ際に、おかしいな、つい先程この駅に着いて、観光を始めたばかりではないか。と、丸一日がたった5分間に凝縮されたかのような、そんな錯覚を体験していた。

今回の旅行に限った事ではないが、レジャーや趣味を楽しむ際に、自分は「いま、両の目で見ている風景と、五感に伝わる全てをなるべく覚えていよう」と、深くいまを刻む事に度々執心する。

そんな努力に腐心(しようと)するのは、人間の記憶は、とても曖昧でふとした事で消えてしまうものだと思っているからだ。

たとえば。

何もせずとも、老境に差し掛かれば、簡単に脳の容量に穴が空き、そこからこの時に一生懸命に刻もうとした「数十年前のいま」は零れ落ちるに違いない。

そこまで年月を重ねずとも、現在の時点で既に、今から二十年ほど前、小学生の頃に友達と過ごした一瞬のそのシーンは断片的にしかもう記憶が無い。

恐らくその頃に「○○君と一緒にゲームやるのやっぱ楽しいな!俺きっと大人になっても今日のことぜってー忘れねーな!」というような事を言った日もあるはずだというのに。


二十年間ずっと僕の家の玄関を映し続けたビデオカメラがあるとしよう。
それに記録された映像を二十年巻き戻せば、ドアを開けて友達の家に向かおうとする僕の姿が、その日々が、確かに映っているはずだ。

まあ実際はそんなビデオカメラはないのだけれど、確かに今日、今に至るまでに生きた事実が積み重なって僕は存在しているというのに、その日々の殆どを詳しく思い出す事が出来ないのは切ないものだ。

前置きが長くなった。いつからかそういった切なさが胸に染みたせいで、自然と「いま」を意図的に記憶しようと、目を見開いて耳を澄ませる事が度々あるというだけの話である。


いくら頑張って思い出を残そうとしても、全て無駄な事かもしれない。


人間、寝ている間は意識が消失する。
僕は寝起きの際にいつも「もし死んだら、今寝てた時みたいに、何も認識出来ない虚無に永久に閉ざさるのだよなあ」というような事を考える癖があり、思い出を頭の中に取っておく事なんか、あまりにも意味が無いように思えてしまう。

死なずとも、事故に遭い脳を怪我したり、歳を取ったり、簡単な事で意識も思い出も原型を失うだろう。

こうして日記にでも想いを綴れば、それを目にした誰かの中でその一瞬、自分が残した想いは「復活」を遂げるかもしれないが……正直なところ、自分以外の人も、皆それぞれに刻むべき「いま」があり、忙しく生きているのだから、刹那的な悪あがきでしかない。

それでも、簡単な事で吹っ飛んでしまう脳のメモリに、楽しい時間を必死に保存しておこうという試みと…上述の悪あがきを、僕は欠かしていない。

何かを楽しんでいる最中にすら「正直これ、後で思い出せるかなぁ」なんて思ってることすらしょっちゅうだけれども。